世界松林流空手道連盟とは

松村宗棍から首里手を継承した喜屋武朝徳(1870~1945)・知花朝信の高弟新垣安吉(1899~1929)、泊手の松茂良興作(1829~1898)の流れを引く本部朝基(1870~1944 注1・注2)に師事した長嶺将真(1907~1997)が創始した流派である。

 

長嶺は自らの空手修業を振り返り、胃弱な身体を鍛えるため1925年(大正14)→1926から久場長仁(1904~1989)に師事し空手の稽古を始めた。その結果体調も日を追って回復したようである。その後一期先輩の島袋太郎に稽古をつけてもらい、最初の師である新垣安吉)と出会った。新垣は島袋の師でもあった。1931年(昭和6)12月~1933年(昭和8)→1936 8月まで喜屋武朝徳に師事した。その後東京警視庁へ研究巡査として派遣された時(1936年4月)半年余にわたり本部朝基(1871~1944)に師事した。長嶺は永年勤めた警察官を退官し、1953年(昭和28)1月那覇市内に本格的な空手道場「松林流空手道興道館」を建設した。流派の命名について長嶺は「私は〈首里手〉の喜屋武朝徳先生、〈泊手〉の本部朝基先生の直弟子として、両先生から長い間指導を受けたが、喜屋武先生は〈首里手〉中興の祖と言われる松村宗棍先生の直弟子であり、本部先生は、〈泊手〉中興の祖と言われる松茂良興作先生(1829~1898)の直弟子に当たり、私は松村宗棍先生、松茂良興作先生の孫弟子になるわけで、両先生の偉業と人間像を永く後世に顕彰する意味で、昭和22年(1947)7月、松村、松茂良の松の一字を以て、松林流空手道興道館と命名したのである。(『史実と伝統を守る 沖縄の空手道』)」と述べている。型として普及型Ⅰ・Ⅱ、ピンアン(初段~五段)、ナイファンチ(初段~三段)、アーナンクー、王冠、ローハイ、汪楫、パッサイ、五十四歩、チントウ、公相君などを指導している。松林流は現在日本本土、北米・南米を中心に多くの海外支部を有している。参考文献:沖縄空手の定本(津波清著・NPO法人 沖縄空手道・古武道支援センター発注)

長嶺 将真(ながみね しょうしん)

長嶺将真は1907年(明治40年)、那覇市泊村に生まれた。17歳の時から空手を習い始め、19歳の時からは、当時の空手の大家・喜屋武朝徳の高弟であった新垣安吉に師事した。

1928年(昭和3年)、那覇市立(旧制)商業学校を卒業した長嶺は、翌年には歩兵大分連隊に入隊し、済南事変にも参戦した。

1931年(昭和6年)、長嶺は沖縄県巡査となり嘉手納警察署勤務になったことから、地元に住む喜屋武朝徳に師事することになった。

1936年(昭和11年)には、東京にて本部朝基にも師事する機会に恵まれた。

1940年(昭和15年)には、沖縄県で唯一、大日本武徳会から「空手術錬士」の称号を授与された。 

1941年(昭和16年)、長嶺は沖縄空手道専門委員となり「普及形I」を創案する。

1956年(昭和31年)には、沖縄空手道連盟の初代副会長に就任し、さらに1961年(昭和36年)から1969年(昭和44年)までの8年間、四期連盟の会長を務めた。

1977年(昭和52年)には、世界松林流空手道連盟を組織した。

1982年(昭和57年)、勲五等双光旭日章を受章。 

1997年(平成9年)、長嶺は沖縄空手界初の「沖縄県指定無形文化財保持者」の一人に選ばれたが、同年、那覇市内の病院で急性腎不全のため死去した。享年90歳。

長嶺は空手史研究家としても著名で、彼の著作は今日でもしばしば引用される。 

 

著作 

『史実と伝統を守る沖縄空手道』新人物往来社

『史実と口伝による沖縄の空手・角力名人伝』新人物往来社